マンガ・アニメ作品における鉄道の描画

先日、アニメ「坂道のアポロン」第5話を見た感想の、鉄道に関するマジ突っ込みをTwitterで連投した。
そのうち2件が二名(二アカウント)からリツイートされた。
理由はわからないけれども、多少は注目された?のだろう。

内容は、九州で直流機関車がブルトレを牽引しているのがおかしいとか、東京発の九州ブルトレの上り列車の機関車次位に電源車が連結されているのは向きが逆だ、とかいう本気のツッコミだ。

というのも、最近、鉄道が主役でない、というか、「列車が走っていればよい」程度の作品で、妙にリアルに描かれているのに間違っていたり場違いの列車を登場させている作品が目につくようになっているからあえてマジ突っ込みしてみたのである。

「坂道のアポロン」を例に取れば、あそこに登場するべきなのはリアルなブルートレインである必要はなく、あの時代に走っていたであろう、九州-東京の夜行列車でさえあればよく、必要以上にリアルに描かれる必要は全くない。列車名も車種の特定も号車札さえも不要だったと思っている。あくまで、飛行機や新幹線で東京に出てくるのではなく、夜行列車を利用する時代の話だ、というのがわかれば充分、というのが私の見解。無意味に間違った細かい描写をして鉄オタに突っ込まれる必要はないのである。

わかりやすい例を挙げれば、サザエさんで、波平さんとマスオさんが通勤に使っている電車はよく登場するけれども、なんだかわからない電車である。が、突っ込みを入れようとも思わない。よくある通勤路線だろう、位にしか思わない。それはそういう描かれかたをしているからである。おもちゃ(プラレールのようなもの)をだすか、スケールモデル(NゲージやHOゲージなどの鉄道模型)を出すかの違いだろう。

実車であれば、森田芳光監督の遺作となった「僕等急行 A列車で行こう」のような鉄道の作品であれば、もう、登場する鉄道(車両から、用語から、名前まで全て)をどれだけ受け取れるか、監督との勝負になる。が、そのような作品はまれである。

もう一つ。全く違うお話。鉄道用語を適切に使わないと台無しになる例を最近テレビで見た。テレビ東京で放送されている「乃木坂浪漫」という、乃木坂46のメンバーが文学作品を一日一作品、一部朗読するという七分番組なのだが、ある日、芥川龍之介の『蜜柑』を紹介した。私は読書家ではないのでこの作品を読んだことはないのだけれども、番組で朗読された部分を理解することはできた。

読んだことがある人はわかるであろうが、番組で朗読されたのは、列車がトンネルにさしかかるところで少女が窓を開けるという場面である。これは今どきの列車であれば、窓が開けられないか、開けられる車両であっても、車内がうるさくなるだけでほぼ実害はない。が、「汽車」と書かれているとおり、当時は蒸気機関車の時代であるから、トンネル手前であえて窓を開けようとするという行為はタブーというか自殺行為というか、禁じ手というか、まぁ、信じられない行為であったはずである。そこを理解しなければその先の踏切のシーンに繋がらない。

が、この作品を朗読した乃木坂46のメンバーは朗読開始前に、「電車がトンネル...」とためらいもなく「電車」という言葉を使っていた。台無しである。スタッフも気付かなかったのだろうか?汽車、列車、電車。それぞれが持つ意味。時代によってそれぞれの言葉が持つ意味と重さが変わってきたこと。とくかく、この『蜜柑』という作品のこのシーンを紹介するのであれば列車を「汽車」以外の言葉で表すのはありえないと思ったのだけれども、どうもそのような感覚がないようである。

別に、日常生活で、気動車を電車と呼んでもそれはかまわない。大差がないからである。ただ、蒸気機関車牽引列車であることが重要な意味を持つ場面で、「汽車」を「電車」と言い換えてしまうのは、なんとももったいないというか、悲しい気持ちになってしまうのである。

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